2025 05,13 21:54 |
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2008 08,04 11:14 |
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『商売は【縁】だと思う。どれだけ【縁】を結ぶことができるか。人生を含め、それだけ自分の出会いをつくることができるか、これからどういう出会いがあって、自分にどういう役割が与えられるのか、そう考えるとこれからがとても楽しみ』 そう話すのは、人と人との出会いから成長し、現在がある、そんなバックボーンを持つ裕嗣さんだからこそ話す言葉かもしれません。
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2008 02,12 17:43 |
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姉妹の長女として生まれた雅子さんですが、高校卒業後『必ずあとを継ぐからいかせてほしい』と京都の大学に進学。しかし卒業後はそのまま医療機関の栄養士として就職し、仕事に民主運動にがんばっていたそうです。都合により退職し八幡に戻ったとき、父親から説得され旅館を継ぐために旅館業に従事することになりました。(5代目となる夫は京都にいた頃に捕まえたそうです)
『茶室的なイメージ』という部屋は統一感ある内装で、和紙のあかりで室内を灯すなど、とても落ち着いた雰囲気となっており、中庭や外庭が望むことができるようになっています。
また郡上踊りで有名な郡上八幡。7月上旬から9月初旬の約2カ月の間、町内各地で踊りが繰り広げられますが、8月13日~16日の4日間は夜を徹して踊り明かす徹夜踊りが開催されます。中嶋屋旅館はその徹夜踊りをまん前でみることができる最古で唯一の旅館。とことん徹夜踊りを楽しみたい方はオススメです。が、ほとんどリピーターで予約が埋まってしまい、新規の方がなかなか泊まることができないのが、女将さんのうれしい悩み。半年ぐらい前から予約受付をするそうなので、興味ある方は要チェックです。
明治5年創業の中嶋屋旅館。当時、八幡町は白鳥や明宝、和良村などに出かけるための交通の要衝となっており、八幡で滞在しながら、各方面へ仕事に出かけるといったような具合で中嶋屋旅館も今でいうビジネスホテルのような旅館として営業していました。
そんな中、高山の料亭で修業を積んだ先代である父が旅館業を継承。そのころはまだまだ数少い料理旅館としての中嶋屋をスタートしました。(その頃は戦後まもない頃で食糧が不足し、料理屋が少なかった)
料理のおいしい旅館として、多くの観光客もあつまり、テレビや雑誌でもたびたび取り上げられました。 その後、中嶋屋の味を先代から伝授された夫が跡を引き継ぐことに。一線から退いた先代はその後は趣味に没頭。父から夫への事業継承はスムーズにすすんだそうです。帳簿も雅子さんの手へ。『帳簿を握るようになり経営の状態がよくわかるようになり、一喜一憂するのでなく、年間を通して商売をみれるようになった』と雅子さん。
先代の頃は商売上の顧客対象でないからと、町内の活動にはあまり参加しなかったそうですが、5代目は『町内全体がよくなってこそ*自分たちもよくなる。共存共栄が大事だ』と、積極的に町内活動に参加。結果、地元の宴会の申し込みも増えるようになったそうです。
事業継承がスムーズに進んだ中嶋屋旅館でしたが、その後大変残念な事態が起こりました。
一家の大黒柱であり、中嶋屋旅館の料理長でもあった夫が4年前に病気で亡くなったのです。
雅子さんは6代目となる長女と今後のことを前向きに話し合います。そして今現在の力量でも営業を続けることができるようにと旅館としての方向を変えることを決意しました。
宿泊スタイルの中心をB&B(朝食だけの片泊まり)に切り替え、一般的な1泊2食の場合は、夕食を懇意の料理屋から取り寄せ『祇園のお茶屋』形式をとることに。料理のおいしい旅館から宿屋としての魅力を高めた『本物の宿屋』を目指すことにしました。(八幡では町が小さく郷土料理などの料理屋も多い。食べ歩きもできるため、最近では人気の宿泊スタイルとなってきている。) ※朝食は女将お手製の郷土料理が楽しめ、しし鍋など夕食についても中嶋屋伝統の味を引き継いでいるものもあります。 ←風呂は木の風呂と石の風呂の2つ。 すべて貸切。 まわりを気にせず、ゆっくりとくろげます。 部屋の片隅には、案内とあわせ便箋が数枚。聞くと「普段の喧騒を忘れ、たまにはゆっくり手紙でも書いてほしい」と娘さんのアイデア。
その他にも中嶋屋文庫というものを用意したり、寝具にこだわったり、本物志向の小物を用意したりで『ゆったり、ほっこり、気軽にくつろいでほしい』という想いが、あちこちで感じることができます。 東海北陸道の開通や業界全体の落ち込みなど、旅館業も厳しい状況にありますが、6代目となる長女の若い感性を生かしながら商売を頑張っている中嶋屋旅館。お客さんと会話ができるように幅広い知識、教養を身につけるための勉強も熱心にしています。2代目からの教えである『親切・真心・丁寧』を心がけ、八幡に訪れた旅行者に気軽にくつろげる宿を提供しています。 郡上八幡に遊びにこられた際には、ぜひ中嶋屋旅館でご一泊ください。ゆったりほっこりすること間違いなしです。
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2007 12,03 15:19 |
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ヌ
ヌマヒノキとツクバネの苗 長く伸びているのはヌマヒノキ。指でさしているもはツクバネの根 10年ほど経つと・・・ 写真右のように大きく育ちます。
左側で緑色の木 ヌマヒノキ
右側で茶色の木 ツクバネ
つくばねはヌマヒノキから養分をもらい育ちます。ヌマヒノキが 枯れれば、つく ばねも枯れます。つくばねが枯れてもヌマヒノキは枯れません。 ※日本名=ツグバネ(羽子板で突く羽子に似た果実が付く) 半寄生の植物で他の植物の根に寄生して養分をもらって生きる。どの樹木にもくっついて養分をもらう。 『人間はつくばねのようなもの。自然界は均衡がとれており、共存して成り立っている。いらないのは人間だけ。自然界のほとんどのものは人間がいなくても、繁栄できる。過度な開発や遺伝子組換えなど、自然界に逆らうのはあまりよくないと思う。』とも話してくれました。
シデコブシ・ハナノキ(ハナカエデ)・ヒトツバタゴ・ミカワバイケイソウ・シラタマホシクサなど、地球上で東海地方の山野でしか見られなくなった植物が数十種類もあります。昆虫の仲間を含めて生態系を知り、共存するために守ることを知り、実行しないと絶滅します。とは山口さんからの警告。 この機会にみなさんも「生きる」こと。「共存する」こと。について考えてみてはいかがでしょうか? 写真左は日本シデコブシを守る会発行の本。世界で200冊発行のうちの1冊を頂きました。シデコブシは日本固有の遺存種だそうで自生地は日本列島中央部、東海三県になるそうです。シデコブシの自生地は、低地、低湿地であるため開発の対象となりその保存が危ぶまれています。 興味がある方は事務所にてご覧ください。 その他、植物をもとめ世界各地をとびまわる山口さんが自ら記した紀行文を談話室にて掲載します。 |
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2007 08,28 16:32 |
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2007 07,24 15:17 |
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今年で76になる古田さん。昭和30年から36年ほどまで京都の老舗で紙加工の修行をして,郷里の美濃に帰り奥さんと二人で商売を始めたそうで、今でも家族3人で元気に商売を続けています。 現在では機械化がすすみ、色紙なども安く手に入れることができるようになりました。しかし、コストや手間をかけない、機械製造の色紙などの場合、紙の質も悪く、にじみや風合いもでず、十分な乾燥もさせないため、斑点(カビ)がでやすいなどの欠点もあります。 『99点ではなく100点満点を目指している』という古田さん。古田紙工では本物の紙にこだわり、本物の紙にあった方法で作業をしてます。 紙は手漉きの和紙をつかい、和紙の質を損なわないように加工も手作業ですすめていきます。 紙の貼り合わせには、水墨画などのにじみを楽しむものは、その風合いを損なわないように、また、やらわらかさや温かさなどの和紙の特性を生かすように、紙の性質に応じて、のりの濃度を変えながら丁寧に貼り合わせていきます。 貼り合わせたものを1枚1枚自然乾燥させて各種寸法に裁断し、金の縁をつけて 紙を1枚1枚自然乾燥させる。 お客さんから預かったもの を表装加工 → 丁寧で質の良い製品をつくる古田さんのもとには、取引相手である業者(名古屋、岐阜の書画用専門店)だけでなく、水墨画などの展覧会をするお客さんや、趣味でやっている方などからも表装加工の注文がはいってきます。 色紙加工や表装加工だけでなく絵手紙用掛け軸や色紙用掛け軸の製造加工もしており、一部は美濃市の土産物屋さんでも購入することができます。 ←絵手紙用掛け軸。絵手紙をはさみ、掛け軸のようにして掛ける 色紙用掛け軸。色紙を掛け軸のようにして掛ける→ 古田紙工であつかう各種紙加工製品。価格応相談ですが特注にも対応してくるとのこと。これから水墨画など初めたいとうかたにも紙の選定から表装まで相談にのってもらえます。 現在、書画、水墨画などされているかたも、ぜひ古田紙工の紙をつかってみては?腕が上がるかも?
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